おことわり

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2014年2月27日木曜日

われらモスクワッ子(「私はモスクワを歩く」「モスクワを歩く」)

雪、帰省、オリンピックとすっかりサボってしまいましたが、ソチ五輪にあわせて旧ソ連映画を。

あまり深く考えずに旧作を漁っているせいか、入手してから作品を調べることも多々あって、この「われらモスクワッ子」もそのひとつ。1963年製作で監督は「不思議惑星キン・ザ・ザ」のゲオルギー・ダネリア。当時10代のニキータ・ミハルコフが俳優として出演しています。ロシア映画社のデータでは「私はモスクワを歩く」となっていて、1964年のソビエト映画祭等でも上映されたようです。

提供のワールド・フイルムは「砂の女」の輸出を手がけ、1965年頃から配給も開始。映画評論家の児玉数夫が当初宣伝部長を務めていましたが、氏の「私の映画日記④」(右文書院)によれば、「(邦人配給会社の)群小どころはもっぱら東急系をめざす、その東急もおぼつかなくなってポシャリ」という状況だったようで、この作品や勅使河原宏が参加した4ヶ国合作オムニバス「15才の未亡人たち」(別題「思春期」)は公開に至らず、児玉氏の在任も9ヶ月で終了。Wikipediaの記事によれば、翌年からはピンク映画の製作に方針転換したようで、その後70年代後半から再び一般映画の配給を手がけています。「ビッグ・マグナム77」「ヒッチハイク」「パワープレイ」…あったなぁ。

お蔵入り、といっても当時この映画の主題歌(「思わず口笛を吹きたくなるような佳曲」とは「別冊キネ旬:ソビエト映画大鑑」の日野康一)の日本語版をダーク・ダックスが吹き込んでいたり、「ロマンス・ロマンス」なるハーモニカ演奏版のレコード(ジャケットもこのチラシのデザインを活かしている)が出たり、といろいろ仕掛けはしていたよう。

この映画、当時のソ連らしからぬ青春映画だったようで、ネットでの評判もいいし、ちょっと観てみたいなぁと思ったのですが、来月東京で上映予定が。でも「ちょっと観てみたい」だけで日曜の夕方に東京ってのもきついなぁ。

2014年2月7日金曜日

火の馬(91R)/忍者武芸帳

1991年リバイバル時のチラシ。
初公開時のポスターデザインを再現。
前回のエントリーの続き。

自分のような地方暮らしの一般人では益川氏のことを知ろうとしても、なかなか難しく、もしやと思って手に入れた「日本の映画ポスター芸術」(2012年にフィルムセンター等で開催)のカタログにも氏の作品は掲載されていない。どうもATG以降のモダンな作品が中心の展覧会だったようで、「近代美術館」を冠したフィルセンらしいといえますが、ちょっと残念です。

そんな中で目を引いたのが、「火の馬」のポスター。1969年に公開されたウクライナ映画で、描いたのは檜垣紀六。益川氏とは東宝アート・ビューロー(現東宝アド)で師弟関係にあり、1977年まで益川氏が担当していた「キネマ旬報」の装丁を引き継いだのも檜垣氏でした。

カタログには檜垣氏へのインタビューが載っているのですが、これが滅法おもしろい。ATG作品といえば、小笠原正勝粟津潔といった方の印象が強く、檜垣氏を「ランボー」や「キャノンボール」に代表される一連の東宝東和の宣伝デザインから知ったこともあって、この種のものに関わっていたことを知らなかったのですが、氏にとっては商業作品中心の仕事の中での「箸休め」的な位置づけだったようで、それゆえ自由な発想とデザインで空間をうまく利用でき、「火の馬」のような魅力的な作品群を生み出していったようです。

そうはいっても社員旅行の熱海の夕陽を「ランボー」に活かした檜垣氏のクラフトマンシップはここでも健在。作成当時、場面写真が3枚しかなかった「ベトナムから遠く離れて」(1968公開)では、少女の横に「地面から伸びている手のようなもの」が見えます(チラシだと少しわかりにくいのが残念)が、これは岡本喜八監督が「日本のいちばん長い日」の撮影準備中に、タイトルのイメージにしようとして没になった写真(痛めつけられた民衆の叫びを表現しようと、マネキンの手を土の中に入れた)を使ったそうです。

市民ケーン」(1966)は新聞社の話なので、キャビネの写真を拡大してドットをわざと目立たせるという手法。これは初版チラシでもそのエッジが効いた感覚が少しだけ窺えます。

二つ折りを見開きで(A4)
忍者武芸帳」(1967)では劇画以外に素材が無かったことから、「たまたま僕の前に若くて目つきの鋭い奴がいたからスタジオで彼の目を撮った」そうで、セールスポイントにしたい大島渚監督の写真が無いので撮影の約束をしたら、スーツとネクタイで現れ、「檜垣君、僕は撮ることはあるけど、撮られたことはないから写真がないんだ」といわれたそう…etc

裏話的な話題ばかり抜き出してしまいましたが、檜垣氏のお話は技術的な面や歴史的な面でも貴重なもので、できればもっともっと多くのことをお聞きして、まとめていただきたいもの。

書籍にするのは権利関係とかで難しい点があるのかもしれませんが、映画宣伝に今ひとつ元気を感じないこの頃、喝を入れる意味でも期待したいです。

2014年2月3日月曜日

モダン・タイムス(72R)

このイラストの原画は墨絵で実物大に描かれ、
淀川長治も「これこそチャップリン」と絶賛したという。
岩谷時子が亡くなった時に、「みじかくも美しく燃え」のことを思い出して、「東和の半世紀」をあらためて手に取ったところ…

この本には淀川長治や双葉十三郎といった映画評論家はもちろんのこと、川端康成や三島由紀夫、寺山修司、宮沢喜一等、各界の方が文章やコメントを寄せているのですが、その中に「世界残酷物語」の写真とともに「ザンコク・バンザイ」という文章が。

筆者は益川進。「聞いたことない人だなぁ。学者さん?(←それはノーベル賞の益川敏英)」と思いながら、読みすすめていたところ、「世界残酷物語」のポスターを担当したなれそめのエピソードが綴られ、「このあと、《ビバ!チャップリン》『愛のコリーダ』へと長く続いた」とあるではないか。

あぁ、灯台下暗し。以前70~80年代の東宝系作品のいくつかのイラストが気になっていたのですが、サインがうまく読めなくて、マルカワ、マスカワどっちだろう?と思いつつ、迷宮入りして放置していたのだった、そういえば。

名前がわかって調べてみると、映画広告の世界で非常に功績のあった方で、東宝を基盤に東映、東宝東和等のポスターや新聞広告で数々の名作を生み出しています。とりわけ東宝時代の黒澤明の作品群のポスター・題字はほとんどこの方の手によるもののようです。

益川氏の仕事は映画広告のみならず、キネマ旬報をはじめとした雑誌・書籍の装丁、あの「男は黙ってサッポロビール」のロゴのレタリングといったものまで。

さらには近年再評価されているという鈴木英二監督、司葉子主演の「その場所に女ありて」(未DVD化)の脚本は東宝の社内公募に入選した益川氏のシナリオが元になっていたり(クレジットは変名で、升田商二)と、本当に多彩な仕事を残されています。

かくして、毎度のことながら自分の知識のなさに恥ずかしくなったのですが、その知名度・功績は業界内と比べて、やはり一般的には知られていないのが現状のようです。映画広告表彰の先駆けである「読売映画広告賞」は第1回をはじめ受賞に枚挙にいとまなく、第25回(1974年5月)にその功績から特別表彰を受けているのですが、読売新聞の過去記事で氏の名前がヒットしたのはこの時が最後。他紙や大宅文庫でも氏の名前は検索できませんでした。
益川氏の仕事がカラー6ページに
わたって紹介されています。
そんな中、昨年は少し動きがあって、氏の母校である広島県呉市の小学校に自作の絵画を寄贈していたことが最近になってわかり、市内の公民館で展覧会が開かれ、地元ではローカルニュースや中国新聞の地方版に取り上げられました。この展覧会を機に呉のミニコミ誌「くれえばん」が益川氏の特集を掲載し、自分もこのバックナンバーでいろいろ知識を得た次第です。

さらに今年に入って、展覧会開催に尽力された母校の元校長先生が益川氏の仕事を紹介したホームページ(益川進の世界)を立ち上げられました。ぜひご覧いただければと思います。これをきっかけに少しでも広く益川氏を知る人が増えることを切に望みます。

蛇足ですが、自分もできる範囲で益川氏の仕事をまとめてみました(日本映画はこちら外国映画ほかはこちら)ので、こちらもご覧いただければ幸いです。

それにしても、これだけの人が世間一般には知られていないのは残念というより、かなり問題なのではないでしょうか。クールジャパンだかなんかで、よくわからない予算を使うより、益川氏をはじめとした映画黄金期に貢献した職人たちの仕事をしっかりとした形で掘り下げ、まとめることの方が絶対に大事だと、強く思います。