おことわり

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2012年5月29日火曜日

BOGEY SPECIAL

ヘラルド映画の業績の中で、個人的に忘れがたいのが「ヘラルド・クラシックス」です。
1984年に権利がらみで長い間封印されていたヒッチコックの作品(「裏窓」や「めまい」等)が再公開されて反響を引き起こします。それに味を占めたCICが名画座ミラノでMGMのミュージカルを連続上映したところ、これも盛況、第2弾も銀座文化で、さらには有楽座・日比谷映画のさよならエスティバルだ、「ジャイアンツ」だ「戦争と平和」だ…と、今までスクリーンでお目にかかれなかった作品たちが続々と観られることになり、喜んで映画館に通ったことを覚えています。

そこに鉱脈あり、とにらんだのか旧作を一気に買い付けたのがヘラルド。最初、キネ旬でラインナップを見たときは「本当?16ミリじゃないの(失礼)」と思ったほど。ちょうど就職と重なって、それまでよりは思うようには行けなかったのですが、本当にありがたかったです。

とはいえ、チラシコレクターとしては個別のチラシがほとんど出なかったのは残念で、当時はこれらの特集物は「外れ」扱い、熱心に追っかけることはありませんでした。

ミレニアムを過ぎてからでしょうか、この辺のチラシに再び興味が湧いたのは。当時、少しだけですが名古屋に住んでいて、せっかく名古屋に住んだんだから、記念に「星ヶ丘三越」のチラシを集めよう、といろいろと探しはじめたのですが、やってみると、この種の特集上映も地方によってデザインが違っていて面白い。しかも安い。

チラシ本は「大全集」がリファレンスに
なっていますが、他の本でもたまに興味
深い記事に出会えることがあります。
さらに影響を受けたのが、たまたま古本で入手した近代映画社の「洋画チラシカタログ1149」の中にあった記事。ヘラルド映画の谷川建司氏が「チラシ宣伝以上あり!」というタイトルで、チラシのディレクティング(おおざっぱに言えばプロデュースって感じでしょうか)について書かれているのですが、これに興味を惹かれました。限られた予算でどのように作品の魅力を伝えるかの一例としてあげていたのが、上のBOGEY SPECIALです。確かにこの種のチラシ、予算が少ないのはまる分かりなのですが、そんな中で写真の選択やトリミング、配置、コピーに工夫を凝らしているものも多く、バラエティに富んでいて飽きることがありません。最近はネット・オークションで地方独自のものが見つけやすくなったことも拍車をかけて、この「ヘラルド・クラシックス」は自分にとって大事な蒐集テーマになっています。

ちなみにこの谷川氏、現在は何と社会学者で、早稲田大学の客員教授です。大阪時代、ジュンク堂で「アメリカ映画と占領政策」という本を見つけたときに、著者の名前を見て、ひょっとして…と思ったものの、当時は結びつける情報がありませんでした。

今回の記事を書くにあたって調べ直したところ、ご本人のプロフィールに勤務歴があって、同一人物だったんだと納得した次第。で、当時5千円という価格に恐れをなして買うのを控えた「アメリカ映画と…」ですが、現在は絶版、アマゾンではプレミアがついている状態。

ぐぬぬ、映画も本もチラシも一期一会でありますなぁ。

2012年5月26日土曜日

ロードショーとスクリーン 外国映画ブームの時代(に行ってきた)


地獄の黙示録の切符売場を復元したもの。
残念ながら撮影できるのはここだけ。
以前のエントリーで紹介しましたフィルムセンターの展示企画「ロードショーとスクリーン 外国映画ブームの時代 」に行ってきました。

展示品は規模の関係もあるのでしょうが少なめで、ポスターもB2サイズが大半。立看サイズとか大きいもの(「世界残酷物語」がありました)をもっとドカーンと見せて欲しかったです。やはり映画館は非日常への入口ですからね。写真展示されていた京都宝塚劇場(ローマの休日)や日比谷映画劇場(007は二度死ぬ)の往時の姿を見ると、よけいにそう思います。

半券、試写状、プレスといった展示は自分のような人間には数も質もあまり新鮮味がないところで、せめて見せ方にもう一工夫欲しかったかな。

予告編集は「エマニエル夫人」は成人版、「Mr.BOO!」も鉄板焼の方と、残ってないのか公開できないのか、苦心のラインナップですが、懐かしくて良かったです。「地下室のメロディ」の和室で挨拶するアラン・ドロン、なんてのもありました。

入場料200円に高望みしても…とは思うものの、国立ですから、税金ですから、そこん所、今後は善処よろしく、ということで。

坂上氏は72年入社ですが、学生時代からバイトで
ヘラルドに出入りしており、いちばん最初の仕事は
「枯葉の街」(69年公開)のイメージソング(由紀
さおり)のタイアップを取ることだったそうです。
楽しみにしていた元ヘラルド常務の坂上直行氏のギャラリートークは45分ほど。50近いパイプ椅子の座席は満席。とはいっても上映中の今井正特集から流れてきた方も多く、司会の方も毛色が違うお客さまに少々恐縮気味でした。

この司会(センターの人)が「エマニエル夫人」の頃は生まれていなかったこともあってか、話題が70、80年代中心ということでもなかったのはちょっと残念でしたが、それでも興味深い話を聞かせていただけて、行った甲斐はありました。

メモも取っておらず、正確性には甚だ欠けますので、あくまで文責は私、ということで勘弁願いたいのですが、いくつか紹介しますと…

70年代の頃はラジオ等で映画音楽の人気が高く、宣伝にもなるので、配給会社の側から製作者側へサントラ発売を持ちかけた。日本でしか発売されていないサントラがあるのはそのため。

「小さな恋のメロディ」がヒットしたのは日本と南アフリカ。

「エマニエル夫人」の大ヒットで、「『エマニエルボーナス』が出た」と週刊誌に書かれたが、先輩のレベルでは、全部合わせるとボーナス袋が立つくらい出た。ただ、その分所得税が翌年高くなるので、次の年はヒット作が無かったので参りました。「エマニエル」のおかげで試写室の椅子が良くなり、これが”シネマスクエアとうきゅう”のオープン当初のの売りであった「フランス製シート」につながっている。

「ベンジー」の公開当時はペットを受け入れてくれるホテルがなく、いろいろ探し回った末、東京駅前のパレスホテルがOKしてくれ、犬の記者会見を行った。

「テンタクルズ」の試写は武道館でやったが、売りだった「トレンブルサウンド」の効果を上げるため,にスピーカーを集めまくって取り付けた。「メジャーリーグ」は東京ドームで。スクリーンのサイズの問題だけでなく、字幕も大きくする必要があった。

「コンボイ」は日本では18輪トラックの通行許可が無く、前輪の部分を使って遊園地等でキャンペーンをした。フィルムがなかなか到着せずに焦った。

「地獄の黙示録」は製作が延び延びになり、社内でも議論があったが、古川社長の決断で続けた。何としても成功させたかった。「野性の証明」の海外ロケ取材に来ていたマスコミにフッテージを見せ,協力を取り付けたのは大きかった。「現代の黙示録」(原題)がなぜ「地獄」になったか?かなり早い段階で「地獄」だったので覚えてないです。

「枯葉の街」の裏面。いずみたくが
自身が作曲したインスパイアソングに
ついて語っています。
「氷の微笑」は(次回のギャラリートークに登場する)東和の竹内康治氏に「『微笑』というタイトルでヒットした映画はない」と言われたが、自信があった。

「トゥルーライズ」はふたを開けてみるとコメディで、何とかアクションで売りたくてアクション大作風のポスターを張り出した。製作者や出演者が来日するので、その前日に張り替えたが、彼らは予定より1日早く入国しており、それを見て「訴えるぞ」と怒り出した。が、この映画がヒットしたのはアメリカと日本だけだったので、その後は何も言われなかった。

「WATARIDORI」、あえてローマ字表記にしたのは自分が観たときの勘のようなもの。

「ロード・オブ・ザ・リング」は邦題をどうするかかなり迷った。「指輪物語」でも良かったが、何とか映画の広大なイメージを出したかったので、原題どおりにした。高額で購入した作品の邦題であり、かなりプレッシャーがあった。

並べて書くと、自慢話の羅列のように思われるかもしれませんが、ご本人は至って謙虚で、「いろいろ皆さんをダマしたようなこともしたと思うので、ごめんなさい」といった趣旨の発言もなさっておられました。

「地獄の黙示録」などその典型でしょうけれど、作り手の売り口上と出来上がったものが全く別物、ということがあるのがこの世界。当たれば大きいけれど、1本の失敗で会社が潰れることがあるわけで、売り手がどんな作品でも「少しでもいいところを見つけて売り込みたい。」と必死になる気持ちは、この歳になると痛いほどよく分かります。生活かかってるもんなぁ。

こちらも木戸銭払っている以上、同情ばかりもしていられないのだけれど、こういった方々の熱意と努力で映画が広まっていくのだなぁ、とあらためて感じる良い機会でした。

ちなみにフィルムセンターでは7月11日からこの展示と連動した作品上映を企画しているそうです。どんな作品が出てくるのか現時点では分かりませんが、東京近郊の方は要チェックかと。

2012年5月20日日曜日

太陽がいっぱい(76R)

初期バージョン。配給会社の名前がありません。
ここ2、3日で「ロボジー/リアル・スティール」のページビューが急上昇という怪現象。何が原因だか分かりませんが、もし一個人の努力によるものでしたら、理由が知りたいのでぜひご連絡をお願いいたします。

さて、カサブランカでは名前が消えたギャラクシー・エンタープライズ(以下GE)が再度登場するのが、翌76年に同じく労音会館でリバイバルされた「太陽がいっぱい」です。

この作品は前回とは逆に、GEは当初からんでいなかったようです。初期のチラシにはGEの表示はなく、館名のスペースに「提供インターナショナル・プロモーション」と入っています。労音会館は常設館ではないので、この表記のチラシは業界関係に配布されたものではないでしょうか(推測)。

残念ながら画像の「チラシ」、私が持っているものは本物ではなく、映画雑誌の付録の切り抜きです、多分。
画質が通常版より暗いですし、裁断が粗く、紙質もその時代の付録のそれに似た感じがするからです。ちなみに手元にあるジェニファー・コネリーが表紙の「世界名作映画チラシ大全集」(昭和62年6月10日発行・集英社)の口絵に掲載されている画像もこれと同じです。ネットオークションで出会った時、「やった大発見!」とひとり勝手に喜んでいたのですが、世の中甘くないですね。

初期バージョンの裏面。通常版は
「スタッフ」の上に配給会社名があります。
結局、労音会館上映時のチラシにはIPの文字は無く、問合せ先にウィズダムの名がある程度。
翌年のシネマ2やテアトル銀座での再映時にようやく 「提供インターナショナル・プロモーション」 の文字が。いずれにしろ、チラシを見る限り、この作品については配給業務はできなかったようです(ま、自分は提供と配給の違いすらきちんと説明できないんですが)。カサブランカに引き続き、こちらでもいろいろご苦労があったのかなぁと思う次第です。

こちらは通常版
1976.7.17公開
それにしてもGE(と書くと世界的大企業のゼネラル・エレクトリックみたいで何ですが)って会社、他の作品では見かけないのですが、なんだったんでしょうか。ネットで調べると東北新社の子会社で同じ名前の会社がかつて存在したようですが、これと同じなんでしょうか。東北新社は「太陽」のDVDも手がけていたことがあるので、可能性は高いと思いますが、あまりにデータが無いので、確証がありません。

なんだかんだとIPに同情的なことも書いてきましたが、この会社、功績もたくさんあったけれど、子ども心にどうも許せなかったのが、「これが最後の上映」を何度もやっていたこと。これはIPに限った手法ではなかったんだけれど、際立っていた記憶があります。とりあえずカサブランカだけでも(こちらが知る限り)3回やっていますので、最後にご紹介。

「カサブランカ」の再映(76年、78年)の館名部分抜粋。
いちばん上が76年。1年空いて78年に6月と12月に「最後」の文字が。その間の9月にも上映しているし。ほかにも日劇文化でも上映している(未所有)ので、余罪?もあるかもしれません。

〆切、限定はどんな商売でもよくある手段ですが、あんまり多いのもちょっとなぁ…

2012年5月13日日曜日

珍品堂主人

前回のエントリーを書いた翌朝、いきなり自宅のPCがネットにつながらなくなり、あれやこれやバタバタしたあげく、今晩ようやく復旧しました。
便利な世の中になったものの、原因もわからずに使えなくなったりすると、文系人間にはキビしいです。疲れました。

まぁ、人類の歴史はあと7000年くらい続くというめでたいニュースも入ってきましたので、通常のエントリーはお休みしてプロフィール写真をリニューアル。最近入手した中でいちばんのお気に入りのものを。

珍品堂主人」。キャッチコピーと森繁の表情がたまりません。

映画は(例によって)未見ですが、原作でも読んでみようかな。

2012年5月11日金曜日

カサブランカ(労音会館)

1975.1.25~2.22上映

以前のエントリーでも書きましたとおり、70年代後半から水野晴郎は自らの配給会社「インターナショナル・プロモーション(IP映画)」を通じて往年の名作や未公開作品の上映を手がけています。中高生の頃、テレビで水野氏が司会の新作紹介の番組を観ていると、大作映画に混じって氏の配給作品がしっかり宣伝されていて、妙な違和感を感じたものです。今でいうステマかな。

当時は映画館とテレビしか選択肢が無い時代で、リバイバルや名画座はまだまだ需要があったものの、それでも観られなくなった作品もたくさんあって、水野氏の会社も(プリントや改題等の批判もありましたが)存在意義はあったように思います。

テレビではメジャーな水野氏も、映画興行の世界では独立系の悲しさか、創業当初はいろいろ苦労されていたのでは…と思わせるのがこの「カサブランカ」のチラシです。

この図柄は何度も繰り返し使われていて、どれがどれだかわからない感じですが、最近になって労音会館版を入手して、あらためてじっくり見てみると、その微妙な違いから上述の「苦労」をうかがうことができます。

1975.8.1~8.24上映
GEは黒で塗りつぶし
いちばん最初の上映(75年1月)はチラシの右下に記された提供会社がIPだけではなく、ギャラクシー・エンタープライズ(GE)という会社も入っています。違いはそれだけではなく、裏面も重要な変更点がありました。詳しくはこちらを参照していただきたいのですが、このバージョンだけ、「この名作に続いて『汚れた顔の天使』、『脱出』、『三つ数えろ』、『マルタの鷹』など続々と登場し、今やボガート・ブームも間近にせまってきました。」とあり、公開当初はこれを機にハンフリー・ボガートの連続上映を企画していたようです。

1976.5.7~9の3日間上映
赤で塗りつぶし。塗りつぶし
の無いIPマーク単独版も
この時から出ています。
残念ながら、実際にはそのような上映が行われることは無かった訳で、半年後の8月の上映では「日本を席捲するボギーとバーグマン」で始まる、それ以降のチラシと同一の文章に差し替えられています。あわせてGE社のマークが塗りつぶされているところを見ると、この辺に企画が流れた経緯が隠れていそうです。 

 そいうえば後年、IPは"PLAY IT AGAIN BOGGY"と銘打って、ハンフリー・ボガートの未公開作(「大いなる別れ」「モロッコ慕情」)を配給したりしていますが、ひょっとするとこれもこの時のことが背景にあるのかなぁ、と考えたりもしてしまいました。まぁ、分からないですけれど。

で、GE社がからんだ話はもうひとつあって、それはまた次回。


2012年5月3日木曜日

日本ヘラルド映画ラインナップ1990-1991


渡辺屋さんから 引越前に提供いただいていた日本ヘラルド映画の1990~1991年ラインナップを遅まきながらアップさせていただきます。すべてA4片面です。

90年後半と91年公開作品が中心で、2種類も作られています。豪華ですね。赤色のカバーに入っていたものはこちら緑色の方に入っていたものはこちらでどうぞ。
さすがにアスキーに比べるとしっかり公開されている作品が多いですが、ボクシングものの2作品が未公開になっているのが目を惹きます。そういえば、片岡鶴太郎ってボクシングやっていたなぁ。いろいろされる方です。

ソニーがコロムビア映画を買収したのが1989年11月、負けじと松下電器がユニバーサルを買収したのが1990年11月。ということで、この時期あたりから家電・放送業界が我も我もと映画業界に参入していて,「ハートブルー」は日本ビクターが製作者に出資、「逃亡者」をパイオニアLDCが、「ミザリー」を日本テレビがそれぞれ共同提供、と動きが派手になっています。で、「ベルリン天使の詩」の成功を元手にあちこちから金を集めた挙句、何だかよく分からん結果になってしまったのが,この「夢の涯てまでも」ということなんでしょう。ハイヴィジョン撮影の先駆けという置き土産もありましたが。

エントリーを書くにあたってパイオニアのことを調べていたら、本社が目黒から川崎に移っているんですね。学生時代、目黒の坂の途中にあったショールームでレーザーディスクの試聴を時々楽しんでいた身としては、最近の電機業界の苦境はちょっと寂しい話で、何とか頑張って欲しいところです。こういった写真を見ると、つくづく大変だなと思いますが。

渡辺屋さん、画像の提供ありがとうございます。遅くなってしまってごめんなさい。