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2014年4月30日水曜日

風と共に去りぬ(MGMリバイバル①)

丸ノ内日活の館ニュース
「風と共に去りぬ」の初公開(1952年)は当時、特別披露公開として「一年間は絶対に一般公開はいたしません」と売り込んでいました。そのためか翌年6月のアンコール上映(2週間)も帝国劇場のお盆興行、カーニバル・ショウと題して行われています。東宝のサイトを確認すると、帝国劇場で映画が上映されたのは1950年の「白雪姫」以来で、その後も1955年からの一連のシネラマ作品上映までなかったようです。この時のチラシを見かけないのも、その辺に理由がありそうな気がしますが、どうなのでしょう。

そして封切から1年経った、1953年10月と12月、なぜか2回に分けて新宿東宝や浅草大勝館等8館で一般公開、以降は低料金の劇場に流れていきます。ただ、これは都内の状況で、全国では有楽座の公開後、各地で独占公開を行っていたようです。

その流れが止まり、仕切り直しされたのが1955年のこと。シネマスコープ第1作「聖衣」(1953年12月公開)のヒットから沸きあがったワイドスクリーン人気に乗ってメトロスコープ、立体音響を施され、9月2日丸ノ内日活劇場にて再公開(3週間)されます。詳しい経緯はこの後一般公開された際の館ニュース(渋谷国際)の画像にて確認願います。
渋谷国際の館ニュースの見開き画面

丸ノ内日活劇場は「私は告白する」「ダイヤルMを廻せ!」といったヒッチコック作品をはじめとしたさまざまな作品を封切っていますが、作品そのもののチラシは見当たらないことが多く、「風」についても、館ニュースだけのように思われます(50年代はこういうことが多いようですが、この辺は自分の勉強不足もありますので、間違いがありましたらご容赦ください)。

ここで少し脱線。「リバイバル」という元はといえばキリスト教の信仰復興運動を指した言葉、近年はあまり使われなくなってしまいましたが、日本で使われはじめたのは映画界より歌謡界の方が先のよう。古い曲を別の歌手で再度吹き込むことを現在では「カバー・バージョン」といいますが、この時代は「リバイバル盤」といって売り出していたようです。リバイバル・ブームについて書かれた文献(矢沢寛)では「1959年村田英雄の『人生劇場』に端を発し、60年の『無情の夢』から61年の『並木の雨』、そして『君恋し』のレコード大賞受賞で絶頂に達する」とあり、電通の広告景気年表の1961年の流行語にも「リバイバル」が掲載されています。

実際には7月15日公開ですが、14日のスタンプが押され
ています。「ベン・ハー」は13日に上映終了していますので、
14日は改装か前夜祭的な催しがあったのかもしれません。
この広告景気年表の1962年に「洋画にリバイバル・ブーム」とあり、「駅馬車」「禁じられた遊び」
「荒野の決闘」等、続々と公開されたのですが、これの先駆けとなったのが、前年1961年7月にテアトル東京で公開された「風と共に去りぬ」です。

この公開は南北戦争100周年記念行事で地元アトランタでワールド・プレミアが行われ、またまたヒットしたため、全世界配給となったもの。

当時の朝日新聞によると、前売りは「ベン・ハー」を千枚上回る4万7千枚が出る人気。もともとは当時大ヒットした「ベン・ハー」と「キング・オブ・キングス」のつなぎとして3ヶ月上映する予定だったはずが、最終的には5ヶ月のロングラン。東京地区の洋画年間興収で「アラモ」「荒野の七人」に次ぐ第3位、上位2作は3館上映(パンテオンほか)だったので、1館あたりの数字でいえば堂々の第1位ということになります。これに年末の「哀愁」のリバイバルのヒットが翌年のリバイバル・ブームを生んだと言えるので、ヴィヴィアン・リーはまさにリバイバルの女神です。

なお、当時の「スクリーン」を見ると、「風」公開時にはリバイバルという言葉はなく、年末近く、「荒野の決闘」「見知らぬ乗客」(劇団民芸による吹き替え版。そういえば初期のレンタル専用ビデオは吹き替えでした)等の公開予定作の記事あたりから使われ始めています。
1962年10月TY白系公開時。
紙質は薄くなり、文字も金から黄に。

「風」は翌1962年も4月に築地中央でゴールデン・ショウと銘打って40日、10月に一般公開でTY白系9館で20日上映されています。

築地中央ではテアトル東京と同じタイプのチラシが出ているようです(ネットに画像あり)。ただ、自分のテアトル版はかなり厚紙で、プレスかも、と迷ったのですが、プレスはカラーもので別にあるし、大丈夫ではないかと。でも「大全集」(P92)の京成ローザ版(千葉)とも少し色が違うんだよなぁ。この辺は自信ないので、もしご事情ご存知の方で誤りに気づきましたら、ご教示いただけると非常にありがたいです。

2014年4月27日日曜日

風と共に去りぬ(バャリースオレンヂ)/セールスマンの死

公開前日の特別披露試写会のチラシ(復刻版あり)
に使われたり、パンフレットにはさみこまれたり。
今年で「風と共に去りぬ」は公開75周年。同い年の「オズの魔法使」は3D版を公開したりしているようですが、何か企画はあるのかな(それにしてもこの年のアカデミー賞、候補作が凄すぎる)。

この作品、前からチラシによって公開回数やロードショーの数がまちまちで帳尻が合わないのが気になっていて、これを機に上映遍歴を少し追ってみました。まずは初公開(1952年9月4日)から。

といっても、当時の有楽座版チラシは人気が高く(先日もヤフオクで10万超え!)、なかなか入手困難、紹介できるのはパンフレットに付いていたといわれる「バャリース」のタイアップチラシのみ。

当時バャリースは進駐軍には納品していたものの、全国販売はこの年から。瓶入り飲料もジュースはすでにあったサイダーほどポピュラーではなかった時代で、知名度を上げたいバャリースに対し、MGMは独占タイアップで応じ、巨額の反対給与を得たという(「独占」なので、当時製薬会社が広告に「風邪と共に去りぬ」というフレーズを使った際も厳重に抗議したとか)。

このタイアップで行ったのが、「バャリース・モーニング・ショウ」なるサービスで、朝の第1回にバャリースの瓶の蓋(王冠)を持参すると、料金を割り引くというもの。

バャリースとMGMとのタイアップはその後も「クォ・ヴァディス」(1953年9月公開)、「プロディガル」(1955年9月公開)といった史劇大作で続いています(「クォ…」はその昔ショップで小型のタイアップチラシを見かけた記憶あり)。1959年に缶入りを発売した際は、東和「お嬢さん、お手やわらかに!」と組んでキャンペーンガールのコンテストを開いたりしています。

主人公の息子の一人にキャメロン・
ミッチェルの名が。おっミネソタ無頼!
このような営業努力も実り、製作13年後というハンデもものともせず、大ヒットとなったわけですが、当時の新聞を見ると、「東京では満員、大阪は八割の入り」(9月25日付朝日)で、高額な600円の席がネックだったよう。「大阪人の方がチャッカリしているから実質的なのに対し、東京人の方が評判だけで中身を考えないで殺到するクセがあるのかも知れないとも見られる。六百円出すなら芝居を見るーというのが大阪人の考え方らしい。」と書かれています。一方毎日新聞(10月14日付)は大阪不入りの原因を都市の経済力とし、「有楽座の札口は千円札でキップを買う人々がほとんど」で「それほど東京の観客には千円札階級が多い」と綴っています(ちなみにその後のインフレで「千円亭主」なる流行語が生まれたのは1975年)。

パンフレットも新記録の11万3千部を売り上げ、それまでの「赤い靴」の8週を上回る13週のロングラン(12月3日付毎日)でしたが、観客減から11月26日で打ち切りたい興行側と、興行収入保障の契約をたてにロードショーの延長を求める配給会社側でトラブル(11月22日付朝日)となり、結局、有楽座は「セールスマンの死」を11月29日に封切り、12月13日から「風…」をアンコール公開するという変則的な対応を余儀なくされています。当時の広告を見ますと、「セールスマン…」も8月に新聞広告を打ち、10月には「スクリーン」で特集を組んだりしているので、こちらを配給したコロムビア映画もやきもきしていたんでしょうね。

参考までに当時の「風」の新聞広告をこちらにまとめてみました。当時としては他の作品(通常の大作でも3回くらい)に比して打った回数も圧倒的に多く、映画会社の期待のほど、人気のほどがうかがえます。また公開末期の展開は上記のトラブルの影響が見てとれます。