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2014年4月27日日曜日

風と共に去りぬ(バャリースオレンヂ)/セールスマンの死

公開前日の特別披露試写会のチラシ(復刻版あり)
に使われたり、パンフレットにはさみこまれたり。
今年で「風と共に去りぬ」は公開75周年。同い年の「オズの魔法使」は3D版を公開したりしているようですが、何か企画はあるのかな(それにしてもこの年のアカデミー賞、候補作が凄すぎる)。

この作品、前からチラシによって公開回数やロードショーの数がまちまちで帳尻が合わないのが気になっていて、これを機に上映遍歴を少し追ってみました。まずは初公開(1952年9月4日)から。

といっても、当時の有楽座版チラシは人気が高く(先日もヤフオクで10万超え!)、なかなか入手困難、紹介できるのはパンフレットに付いていたといわれる「バャリース」のタイアップチラシのみ。

当時バャリースは進駐軍には納品していたものの、全国販売はこの年から。瓶入り飲料もジュースはすでにあったサイダーほどポピュラーではなかった時代で、知名度を上げたいバャリースに対し、MGMは独占タイアップで応じ、巨額の反対給与を得たという(「独占」なので、当時製薬会社が広告に「風邪と共に去りぬ」というフレーズを使った際も厳重に抗議したとか)。

このタイアップで行ったのが、「バャリース・モーニング・ショウ」なるサービスで、朝の第1回にバャリースの瓶の蓋(王冠)を持参すると、料金を割り引くというもの。

バャリースとMGMとのタイアップはその後も「クォ・ヴァディス」(1953年9月公開)、「プロディガル」(1955年9月公開)といった史劇大作で続いています(「クォ…」はその昔ショップで小型のタイアップチラシを見かけた記憶あり)。1959年に缶入りを発売した際は、東和「お嬢さん、お手やわらかに!」と組んでキャンペーンガールのコンテストを開いたりしています。

主人公の息子の一人にキャメロン・
ミッチェルの名が。おっミネソタ無頼!
このような営業努力も実り、製作13年後というハンデもものともせず、大ヒットとなったわけですが、当時の新聞を見ると、「東京では満員、大阪は八割の入り」(9月25日付朝日)で、高額な600円の席がネックだったよう。「大阪人の方がチャッカリしているから実質的なのに対し、東京人の方が評判だけで中身を考えないで殺到するクセがあるのかも知れないとも見られる。六百円出すなら芝居を見るーというのが大阪人の考え方らしい。」と書かれています。一方毎日新聞(10月14日付)は大阪不入りの原因を都市の経済力とし、「有楽座の札口は千円札でキップを買う人々がほとんど」で「それほど東京の観客には千円札階級が多い」と綴っています(ちなみにその後のインフレで「千円亭主」なる流行語が生まれたのは1975年)。

パンフレットも新記録の11万3千部を売り上げ、それまでの「赤い靴」の8週を上回る13週のロングラン(12月3日付毎日)でしたが、観客減から11月26日で打ち切りたい興行側と、興行収入保障の契約をたてにロードショーの延長を求める配給会社側でトラブル(11月22日付朝日)となり、結局、有楽座は「セールスマンの死」を11月29日に封切り、12月13日から「風…」をアンコール公開するという変則的な対応を余儀なくされています。当時の広告を見ますと、「セールスマン…」も8月に新聞広告を打ち、10月には「スクリーン」で特集を組んだりしているので、こちらを配給したコロムビア映画もやきもきしていたんでしょうね。

参考までに当時の「風」の新聞広告をこちらにまとめてみました。当時としては他の作品(通常の大作でも3回くらい)に比して打った回数も圧倒的に多く、映画会社の期待のほど、人気のほどがうかがえます。また公開末期の展開は上記のトラブルの影響が見てとれます。

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