2014年6月8日日曜日

風と共に去りぬ(MGMリバイバル②)

1967.4.7日比谷スカラ座公開時のチラシ。後年使われ続けるこのイラストは60年代に数々の映画ポスターを手がけた
ハワード・タープニング(Howerd Terpning)によるもの。
61年もヒットを飛ばした「風と共に去りぬ」ですが、その勢いは1967年のリバイバルにも引き継がれます。当時のチラシには「全世界はすでに5回、わが国ではこれが4回目」とありますが、前年から3月にかけて菊田一夫による舞台版(帝国劇場)が5ヶ月のロングラン、70㎜版の世界初公開という絶好のタイミング。公開直前4月5日付の毎日新聞夕刊は「またヒット確実?」と報じているのですが、記事によると、公開約2週間前の3月28日から始まった日比谷スカラ座の前売り(窓口および電話予約)は、最初の4日間で3,714枚。昨年(1966年)の同劇場のヒット作「南太平洋(リバイバル)」「おしゃれ泥棒」の前売り発売数(最初の4日間)がそれぞれ1,128枚、938枚だったというから、期待の高さがわかろうもの。

実際に公開されたときの熱狂ぶりは、元東宝社長で「午前十時」の選考委員も務めた高井英幸の回想録「映画館へは、麻布十番から都電に乗って。」に詳しく書かれています。当時スカラ座で働いていた入社4年目の高井氏も残業100時間の大奮闘、続々と詰めかけるお客様に、宣伝カーで「お帰りください」と呼びかけたのは、あとにも先にもこのときだけだったそうです。余談ですが、以前映画年鑑(いつの年かは記憶なし)を読んでいたら、係長時代の高井氏が「映画館の業務の手順を冊子にまとめて評判」みたいな記事が載っていて、社長になる人は違うなぁ、と思いましたが、この時の経験も生かされているんでしょうか。

かくしてスカラ座は17週、続くニュー東宝(現在のTOHOシネマズ有楽座。この作品にあわせて70㎜対応に改装)で6週の大ヒット。翌68年3月にテアトル東京で26日、69年3月にもテアトル銀座と新宿武蔵野館で47日とたて続けに上映されています(大阪では70年に阪急プラザ劇場でD-150方式で上映されているのは以前ご紹介したとおり)。

さて、「チラシ大全集」を開くと、1967年の頁に上記のイラスト柄と本編を観た人には印象的な写真柄の2種類が掲載されています。共にB5の二つ折りで、中の文面は同じです。自分はイラスト柄はスカラ座版とニュー東宝版、写真柄はテアトル銀座版を何とか入手しているのですが、写真柄がそれ以前(67・68年上映時)に出ていたのかはちょっと判りません。
上:風と共に去りぬ
下:ドクトル・ジバゴ
ともに、1969年テアトル銀座上映時

写真柄のMGMマークは67年以前の古いタイプ(「2001年」製作に合わせて作られた新マークは67年12月公開の「危険な旅路」以降に使用)なので、69年に新たに作られたものではないと思うんですが、何せものを見たことがないので確信が持てません。この辺にキャリアの浅さをひしひしと感じます(ご存知の方、教えていただけると嬉しいです)。

続く1972年2月、当時のチラシによると、「わが国五回目」の公開がシネラマ方式で行われます。すでにテアトル東京で2回上映されていますが、シネラマ方式としての上映は松竹系のこれが初めてだったよう。
左がシネラマによる松竹・東急系、右が70ミリによる
東宝系(日比谷スカラ座)アンコール上映。

72年2月というと、札幌オリンピック真っ盛りの時期。「フレンチ・コネクション」と「ダーティハリー」の対決を思い浮かべる方もいらっしゃるかもしれませんが、東京では「風」が「フレンチ」の倍近く動員、年間興行でも第4位と強さを見せつけます(大阪は「フレンチ」が上。「ハリー」はロードショー時、大ヒットに至らず)。

年末にもスカラ座に戻ってアンコール上映。MGMは2年後の74年2月に日本支社を閉鎖しましたので、これが最後の「風」の配給だったと思われます。

個人的にはこの時のチラシのデザインが一番好きです。クラーク・ゲーブルを入れなくちゃいけないのでしょうし、67年版のイラストに大河ドラマ調の魅力があるのも確かですが、やはりこの映画は「南部女のど根性半生記」だと思ってますんで。

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