その中で「日本の公の資料には記録されていない。短篇、中篇は重要視されていない時代であったからだろう。」と紹介されているのが、「恋ざんげ」。「カメラ=万年筆論」のアレクサンドル・アストリュックによるヌーヴェルヴァーグの先駆的作品なのだとか。
このチラシ(プレスのような気もしますが、「秘蔵!洋画チラシ全集」P23に掲載あり)を入手したのは、上述の映画史的な価値とかではなく(というかその辺のことは今回調べてはじめて知りました)、単に「日本語で喋べる外国映画」と書いてあったのと、縦の観音開き(と呼べばいいのかな)という作りに興味を惹かれて。年代ものにしては安かったこともあります。家に帰って中を読んでみると、おっ、アヌーク・エーメが出てるじゃん!ラッキー!と小さくガッツポーズ、ってその程度の人間です、私は。
この作品、当初は「色ざんげ」というタイトルだったようで、文面はすべて「色ざんげ」になっていて、表だけ「恋」という字をシールで貼り付けています。
「嘆きのテレーズ」のチラシ。残念ながら館名はなし。このデザインは 新宿武蔵野館のスタンプが押されたもの(1954.8.3)は見かけたことが ありますが、丸の内ピカデリー版はあるのでしょうか。 |
で、「恋ざんげ」はいつ頃公開されたのか。「秘蔵!~」に54年公開とあったので、例によって新聞縮刷版を辿ってみますと、東京では1954年4月20日に丸の内ピカデリーで「嘆きのテレーズ」の併映作品として上映されたようです。中篇だからといって単なる添え物ではなく、当時の新聞にも単独でこの作品の広告を載せており、映画会社としても力が入っていたのではないでしょうか。ピカデリーでは「嘆き」ともども1週間で上映が終了していますが、もともとこの予定だったようで、打ち切りではありません。「嘆き」のキネ旬の紹介記事を読むと、大阪では2月に封切っていたようで、このあたりの上映状況は現代とは大きく異なっていて、把握するのが難しいです。
ちなみに「恋ざんげ」のチラシの裏面には日本語版の紹介があり、「翻案は秦一郎氏、演出は末松正樹氏が担当し、日本語吹込みは篠田英之介氏です。」とあります。秦一郎は「パルムの僧院」や「黒いチューリップ」の翻訳も手がけた仏文学者ですが、苗字でも察しがつくとおり、秦早穂子の父親です。
「影の部分」には映画会社への入社や渡仏を巡っての家族との対立にも触れていますが、こういった仕事が残っているところをみると、それはそれとして父娘の交流もちゃんとあったんだな、と感じます。末松正樹は洋画家ですが、一時期新外映に在籍していて、小説内でも秦早穂子の入社時の面接官として登場。なお、会社は違いますが、「天井桟敷の人々」の邦題はこの人の手によるものだそうです。
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